遠友夜学校の精神ー慈愛

一昨日開拓記念館で買った一冊 「思い出の遠友夜学校」北海道新聞
 
 先日、テレビで貧しいパキスタンで文盲をなくすためのプロジェクトが紹介された。日本には文盲はほとんどいない。江戸時代でも寺子屋があり、識字率は相当高かったと見られている。しかし、実際には明治以降の近代になっても文盲は相当数いた。それは圧倒的に農民層であった。第二次世界大戦前まで農村は貧しかった。小作制度があったからだ。小学校は義務化されたがお金がかかった。その経費を払えるレベルではなかったのだ。おまけになすべき労働は小さな子供までかり出さねばならず、本人に強い「知への要求」があってもそれを許すような経済環境になかったのだ。そこからはい出す多くの英雄伝とともに悲劇が語られ続けた。私は北海道の田舎で育ったが明治生まれの祖父母の世代は、そのようなことで満ちあふれていた。
 豊かになるためには、日本国憲法で保障された衣食住の不足からの自由だけでは十分ではない。その次にくるのは知識だ。豊かで自由になるためには、まず「知ること」がその第一歩、その最初のステップは字を知ることなのだ。
 北海道で、そのような貧しい子供達、字すら学べなかった人たちのために私財を投じた学校があった。「遠友夜学校」という。5千円札で有名となった新渡戸稲造が創設した私塾だ。新渡戸は、札幌農学校の初代学長クラーク精神を受け継ぎ、後に京大教授、東京帝大教授、東京女子大学長や国際連盟の事務局次長まで勤めた人だ。英語で「武士道」(英語名、日本の魂:The soul of Japan)
を著し、日本を世界に知らしむために絶大な力を発揮した人だ。
 遠友夜学校は明治32年に創設された。教師には北大の学生が当たった。全てボランティアだ。その創設資金は新渡戸の夫人であった萬里子(メアリー、アメリカ人)の実家から送られたものだったという。萬里子の実家が引き取って育て、お手伝いとなった孤児の女性が生涯の蓄積の遺産を、日本の萬里子へ送ったものだった。幼きマリーの育児に深く関わっていたという。そのような人の慈愛の連鎖が生み出した学校だった。
「遠友」とは孔子論語の有名な「遠方より友来たりなば、また楽しからずや」から名付けられたという。クリスチャンであった新渡戸の慈愛精神の実践であった。
この遠友夜学校の精神は、貧乏からの脱却そして人間としての成就のためには何よりも「知る」ことこそ基本であることを貫いた。
 この学校の生徒募集のビラには以下のことが掲げられていたという。
「文盲への宣言」
一、 世界で一つの学校。これ程どんな人でも入れる学校はありません。
一、 社会事業団体として諸君の勉強に最大の誠意と関心を持っています。
一、 働きながら勉強できます。
一、 いくら歳をとっていても差し支えありません。
一、 男でも女でも構いません
一、 何時でも入れます。
一、 月謝は入りません。
一、 学用品はあげます。
一、 先生は諸君の友達です。
 そして、
「教師も、生徒も、共に夜学校へ夜学校へと引かれるのは何か。これ夜学校に満ち満ちた熱の力である。教える者の熱と教わっているも者の熱。それが互いに触れ合う時にはピタゴラスもいらぬ。プラトンも無用である。何者も焼き尽くさねば止まらない熱となり、これによって見るに足らない夜学校が、――目に見えない効果を挙げつつ、その特殊的存在を続けて来たのである」と
 このクラークから新渡戸稲造へそして遠友夜学校へつながる系譜は戦前の日本にあって、リベラルな教育の重要な流れであった。

後に、第二次戦争最末期に本郷キャンパス大本営接収に敢然と抵抗し、戦後GHO本部のための本郷キャンパス接収にも抵抗した東大南原繁総長は、新渡戸稲造の教えを受けていた。その後の東大総長の矢内原忠雄氏は「日本の国立大学には、2つの大きな中心があって、1つは東京大学、他の1つは札幌農学校でありました。この2つの学校が日本の教育における国家主義と民主主義という二大思想の源流をつくったのであります」と述べている。
 しかし、この民主主義の流れは、昭和19年「軍事教練を課していない遠友夜学校、それは存在に値する学校ではない」として閉鎖命令を受けて、その歴史を終えたのだ。

 私の恩師であった北大の今は亡き松井愈教授は、実は、北大の学生であった昭和17年と18年に、この遠友夜学校で最後に教壇に立っていた。氏は生前そのことについて私らに語ることはなかった。しかし、先輩の言によると、憲兵隊に拳銃を突きつけられ詰問されたという。
 この遠友夜学校における慈愛による教育と学びの精神こそ、人間が自由になるために何が必要なのかを実践した確かな足跡である。