都城秋穂先生ご逝去

都城秋穂

昨日、突然、都城秋穂先生ご逝去の訃報が飛び込んで来た。
火曜日朝、散歩で霧の深い中で崖から転落し、木曜日に発見されたという。
あまりにも著名な日本人研究者の死であり、残念でならない。
木曜日、私は学生をつれて長瀞巡検にいった折、彼の変成岩岩石学の世界的貢献の話をしたばかりであった。まさにその時間に亡くなっていたのだ。
ご冥福をお祈りする。
http://news.google.com/news?hl=en&tab=wn&scoring=n&q=akiho+Miyashiro


もう25年以上前になるが、私は玉木賢策氏とともにAlbanyの都城氏を訪ねたことがある。
はじめてのニューヨーク、そしてはじめての都城氏との対面。
私たちはまだ若い事もあり、大変緊張していたが、とても親切に、そして熱くいろんなことを話していただいた。
日本列島のこと、研究のこと、文学のこと、孤立する人間とは、とか研究のことを交えながら、本当に話し続けた。そして、奥さん共々、ドライブにもでかけ、「ここが独立戦争の時のイギリス軍と独立軍が対峙した丘であるーー」とか、「アパラチア山脈と言っても実は丘でねーー」とか、もの静かに、しかしとてももの静かに語り続けた。


「論文は、charmingで、charmingでどうしようもない、と自分で思えた時に、本当にimpactのあるものとなる」とのその時の都城さんのことばは、その後、私の「座右の銘」となった。


その面談のあと、都城さんは、私たちに会って、テクトニクス最後の論文を書く気になったといって、
「hot region」という、いまでいえばplumeに関わるような論文を書いて、その柔軟な発想に大変驚かされた。そして論文のあとがきには私たちとの議論が、論文を書くきっかけになったとまで書いていただいて、大変驚くとともに恐縮した。



また、彼の視野は、専門の岩石学にとどまらず極めて広く、戦後一貫して、科学論の分野においても常にリーダシップをとりつづけ、学界に大きな影響を与えた。不幸にも学界における政治論争の一方の極に押しやられ、多数の中で、一見、孤立するようになったが、その論理の明晰さは相手のそれではなかった。若者に支持者が多かった。私のいた大学でも、都城さんに対峙する学派が圧倒的であったが、私たちは読み続けた。焚書坑儒的事件も発生したりしたが、歴史の流れを変える事は出来なかった。今や歴史がすべてを証明した。
最後に、その締めくくりもされた。

科学革命とは何か

科学革命とは何か

そして、そのより客観的な歴史も整理された。
プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

私も学生時代に、地質学をはじめたときから、都城氏の論理の明快さに敬服した一人であった。
しかし、学生時代にはすでに米国へ移住してしまっていた。

だからこそ、その後、アメリカでその巨星ー都城先生に会えた時の喜びと、その人格の深さに接する事ができたことは、人生の貴重な一こまとなったのである。

20世紀世界を席巻した日本の地質学、地球科学の最大の巨星の一人が去ったことは本当に残念でならない。
合掌