海外とダイリア

海外へ行くと、水が合わなかったり食事が合わなかったりでやられる。
今回は久々だ。
それにしても苦しい。
これまで恐らく100回くらい海外へ出入りしているが、めずらしい。
ちょっと思い出す深刻だったものを記してみよう。

我がダイリア奮戦記(1)

1986年、中国北東部(旧満州)中朝の国境にほど近い朝鮮族居住の村で(当時は外国人の立ち入りは完全に禁止されていたが、中国科学院同伴で入った)

 レストランへ出かけて、食事をとる時間となった。昼間の調査で疲れている。地ビールが出てくる。冷やされてはいない。炭酸がほとんど抜けている。しかし、ちょっと味のある水のようなものだと思って飲む。なぜなら水は大変危険だからである。ウエイトレスは若い美しい女性がやっているのであるが、制服は汚れている。皿や箸が飛んでくる。その応対にも大変驚かされたが、北京も含めてどこでもそうであったから、それには慣れていた。
 しかし、旧満州の滞在が長くなると、中華料理の繰り返しに耐えられなくなってくる。そこへ、新鮮なキャベツが出された。キムチの基となるのと同じ辛味噌が添えてある。
「うわー、新鮮キャベツだ!」
久々の生野菜に、皆嬉々として食らいついた。
「うまかった!これが一番だね〜」
生暖かいビールではあったが、ほろ酔い気分。心地よい疲れにうとうとと眠りについた。
しばらくすると、なにやらお腹の調子がおかしい。慌ててオープントイレへ駆け込んだ。見ると一緒に泊まっている日本からの調査隊の人がいる。うんうん、うなりながら用を足した。少し楽になり出ようとすると、また一人駆け込んできた。
「おかしい!これは。食中毒ではないのか?」
翌朝、一同に介した時、状況が判明した。河野隊長以外、日本から5名、北京から3名の全員が下痢をし、腹痛を訴えた。昨晩の食事の何が悪かったのか、議論となった。結論は、あのキャベツではないのかとなった。他のものは火を通したものばかり。しかし唯一キャベツのみが生であった。おそらくキャベツは水洗いされ、その水が悪かったのではないのか、ということとなった。
 持参した正露丸(これはそもそも満州の地で起った日露戦争の際、日本軍の兵士たちが満州の地で水による食あたり対策に絶大な効果を発揮した薬であり、昔は<征露丸>と呼んだ薬である)を皆で飲んだ。更に下痢止めの「強力ワカモト」の瓶もカラとなった。それでも収まらない。日本から後に駆けつけることなっていた、中国からの留学生に大至急薬を持参してくれるように電報を打った。
 最後の手段は、経口抗生物質である。河野隊長は、中国の医療体制などを気にかけて、持参してきたのである。それが功を奏してようやく騒動が治まった。それにしても「一回で二度辛いってつらいね〜」治まった後に笑い話となった。


我がダイリア奮戦記(2)
1989年 ロシア・サハリン
 ソ連崩壊直前だ。ウオッカのたぐいは完全に手に入らない。セルゲイェフ所長は、研究所からアルコールを持参し、フィールドの足しにした。食料もない。研究所はかろうじてガソリンの配給切符がある。それを農家に持って行って、いもと交換する。途中の集団農場らしいところで車を止めて、人参を引き抜く。本当は駄目らしいのだが誰か見ている訳ではない。
 そうしていよいよ調査に入った。連日調査の後はキャンプで飲む。そしてある日、私はとてつもない腹痛に襲われた。どうも食中毒的様相だ。調査に出かけることもできない。
その時だ。所長のセイゲイェフ所長が、アルコールをそのまま飲みなさい。全てを消毒してくれるというのだ。「ええ!だって99%!!」
しかたがない。10CC一気に飲んだ。口の中は爆発!喉も焼け付く!
そして湯冷ましの水を一気に飲んだ。
当然酔う。ぐっすりと眠った。
翌朝、腹痛はうそのように消えていた。
黒パンにマーガリン、その上にイクラ樺太マスは手づかみでいくらでも捕まえられる)を乗せて、毎日キャンプで食事をしていたのだが、とにかくハエが多い。それがよからぬ菌を運んで来たのか、と思った。

我がダイリア奮戦記(3)
1990年 オーストラリア
この年もサハリン。しかし家には帰らず、新潟から成田へ移動しそのままオーストラリアへ飛びことになっていた。新潟の夜、久々の日本食を堪能した。日本海の夏の岩牡蠣。最高!こんなうまい物が世の中にあるのか、と思うほど至福の時を過ごした。
そして成田へ。機内でお腹がゴロゴロといいはじめた。
パース、そして北西部のフィールドへ。調査隊と合流し、調査がはじまった。本格的ダイリアだ。
薬屋へ駆け込んだ。
しかし、飲めども飲めども一向に良くならない。食べなければ持たない。でも食べるとつづく。
調査に穴をあけるわけにも行かず、トイレットペーパーを抱えて続けた。
幸い、オーストラリアの岩砂漠には天然トイレは無限にある。
それにしても、この赤い大地にはなんとハエの多いことか。
岩陰にしゃがりこんでよってくるバズを眺めていた。
結局二週間以上つづいた。回復したのは調査も終えようとする段階であった。
健康って一番! 長いトンネルを抜けた。