地球科学の哲学

昨日の会議もそうであるし、いま急テンポですすめている地惑星連合科学連合の法人化の根底に流れるもの、この科学を未来向けにどう設計し、それを推進する組織つくりをどうするか、考えることが多い。
それにあたって私には、不足しているものがある、と思えてならない。

それは、根底に流れる哲学である。
哲学というと文系のもの、それをやりはじめると科学は前へ進めなくなる、という見方は多い。
しかし、それをつねに考えながら日々の科学をやらなければ、たこつぼになるのである。

日本の地球科学、とくに地質学の世界において、そのような議論が一見、活発であった時期があった。
それは、1950年代から60年代である。
しかし、その議論は、政治まみれになり、個人の意見に対して政治的レッテル貼りが横行した。
「お前は左翼だ!」「お前は右翼だ!」である。
多くの科学者はそのような政治まみれになることを嫌い、科学の根底に流れる哲学的問い、
「私たちは何もの、どこから来てどこへ行くの?」
ということにどう答える術をもつのかという問いかけに対しての、つっこんだ作業をしなくなった。
「そんなこと考えていたら論文が書けん!」と。

そのような深い洞察は、自分を問う作業でもある。
明日からは秋田で地質学会だ。

会長職も終わり、身軽になって参加できることはうれしい!
もう年でもあるが、そのような根本的問いかけを、ちょっと若者に吹っかけてみようかな?
あまりやりすぎると、嫌味なオヤジになるぞ! ってな声が聞こえてきそうだが。

あす朝始発便で秋田だ。