激震6/科学におけるボトムアップとトップダウン

アララギさんがコメントで、事業仕分け人のブログでの興味深い意見を見つけてくれた。
http://www.chieichiba.net/blog/2009/11/by_paco_113.html

毛利さんの答弁は、非常に説得的で、他の官僚たちによる答弁は極めて不十分であったという。
私の周りの多くの人の感想もその通りである。

深海ドリリング計画(地球内部ダイナミクスを含む)の判断はまずかったかもしれないという。
実にありがたい正直なご意見である。


なぜ毛利さんの答弁は説得的で、他はそうではなかったのであろうか?

私には、そこには、日本の官僚機構に潜む、科学の推進になじまない構造的欠陥があると思えてならない。個人的な意見であるが、あえて言わせていただく。

この10年ほど、海洋底掘削研究にからんで、アメリカのNSFにおける科学計画における意思決定システムを幾度も見てきた。そしてそこで働く現場の官僚たち(日米双方)とも会議の席で一緒になる機会が多かった。皆、実に一生懸命に働いている人たちで、実に頭が下がる。

アメリカの専門に携わる官僚たちは、全てPhDの学位を持った人たちである。しかも、現場の人はそこに張り付き、コミュニティー(研究者たち)のほとんどの人たちが知ってる。もちろん、その人も極めて多くの研究者を知っている。専門を熟知しているだけではなく、それを支える組織、様々な研究者、人間も熟知しているのである。

しかも、新しいプロジェクトを開始しようというときには、必ず、まずコミュニティーを集めて、数日に渡り、open discussionの場を開く。そしてそのプロジェクトの科学的意義、社会的意義を徹底討論させるのだ。それへの参加から何から全てopen。旅費に関わる経費も出す。
皆、自分の研究が如何に大事であるかの全面的説明責任を、まず大局、そして最後に自分の提案が如何に社会との関連も含めて大事であるかと展開する。もちろん理路整然と(時にはディベートで興奮する人もいるが、それだけで印象はがた落ちとなる)。
それは、まさに科学における政治なのである。政治とはなんぞや、という問いに多くの答えがあるが、私は、「政治とは説得である」ということばが最も適切であると思う。

それをNSFの専門官が眺めていて、他のサイエンスや大プロジェクト、あるいは科学以外の巨額支出に対して頑張る論理的根拠を整理するのである。もちろんコミュニティーからの質問にも適切に答える。それが出来ないような官僚は、コミュニティーからの支持を失う。そして、そのような徹底したボトムアップを背景として、正確なトップダウンを下す。それがコミュニティーにとって大きな痛みであっても、皆、納得せざるを得ないのである。それが民主主義国家の科学の意思決定の現場である。オバマが大統領となるにあたっての科学者コミュニティーの期待は、隅々まで及んでいた。アメリカでは、恐らくほとんどの官僚たちが、そのように働いている。皆、その蓄積を背景として、問われた瞬間に即効で答える事ができるのである。

しかるに日本は、官僚たちは、長くても同じ部署に3年といない。次々と変わる事によって、上へ上へと登って行く。その短い時間に、どれほどの仕事をしたか(特に予算獲得?)が上昇速度を決めるかに見える。その仕事の基準は、極めて短期間に、その分野を把握し、適切な判断ができるかである。全てが即断即決の世界である。彼らの多くは、驚くほど優秀で、不眠不休で勉強をする。実に頭が下がる。しかし、十分な理解に達して熟知するに至ると、時間切れとなり、他の部署へ異動して行くのである。意思決定の中身は、その優秀さの限界をはるかに超えている場合が多い。特に科学においては。

だから、様々な審議会を開いてお墨付きを得て、財務省と対峙する根拠を得る必要があったのである。審議会は一般には公開されてはいないので、お手盛りとの批判が出ても当然である。しかし、一応、その分野の権威を集めているので、必ずしも間違った判断となるとは限らない。しかし、様々な意見のあるコミュニティーから見ると、密室で、バランスに欠けると言われても仕方がない。コミュニティーにも、一般国民にも見えないのである。

アメリカの意思決定の仕組み(成熟したボトムアップトップダウン)と比べると、なんと対照的であろうか。
アメリカのすべてがいいというわけではないが。とにかく、決めるまでに時間がかかるのである。しかし、それも織り込んで、lead time(先行時間)を長くとる。
たとえば、2013年以降、深海底科学掘削をどうするかの議論は、昨年からすでにはじまっている(ほぼ5年間の先行時間)。

私はかねてから、官僚の科学に関する部署には、学位を持った人を大量に配置すべきであると思っている。世に溢れるポスドクの人たちには、そのような能力に長けた人が実に多くいる。アメリカと対等平等を詠う限り、それを保障できる仕組みと人を持たなければどうにもならない。(もちろん人を考えた、お金を配置することも極めて重要。箱と竹槍ではどうにもならない)

さて、事業仕分け答弁のコントラスト。
その分野で長年張り付いて、人生をかけている毛利さんは、官僚ではない。だから説得性が生まれた。一方で、渡り歩く官僚たちの答弁には説得性が生まれない。当然なのである。これは彼らの責任だけではなく、根本的な仕組みの問題なのである。

当然、刷新会議事業仕分け人はそのことも十分理解しているはずである(と期待したい)。だから、あえて挑発的攻撃的手法でやっているという意見が多く飛び出しているかに見える。しかし、そのような手法は、周辺からは拍手喝采ではあっても、当事者への説得性は決して生まれない。「政治とは説得である」との原則に反するからだ。

「恨みからは恨みしか生まれない」ことは、超えがたい人間の性なのである。

この古い官僚システムに風穴をあけられれば、多いに意義が生まれる。しかし、風穴の開け方が、零リセットではあまりにも稚拙(この言葉も挑発的かもしれない、ごめんなさい)で、打撃的で、損失は修復不能となるのである。