続く激震10/大学そして科学の芽

昨日の、朝の大学運営交付金「仕分け」を忸怩たる思いで見た。

そして、夜、ノーベル賞受賞者らの集会へ出席した。
先生方は、皆、時に笑いをとりながら、極めて重い本質的なメッセージを次々と発せられた。そのほとんど全てに同意できるが、中でも私の心に重く響いたメッセージがあった。それは、フィールズ賞の森氏のものであった。

「科学研究費をはじめ全ての競争資金は、科学の新しい芽が出た後のことなのです。それは競争でいいのです。しかし、如何に芽を育てるかは、競争資金では決してできません。今、それがついえ去ろうとしているのです」という主旨のことを述べた(録音してた訳ではないので、正確ではありません)
大学運営交付金とは、そのような芽を育てる意義を持った経費なのである。見直して縮減せよ、との結論には、全く哲学がない。未来設計もない。

さきほど、来られた先生はいみじくも、今の「事業仕分け」をこう表現した。
「土壌の育成をせず、種もまかず、ただただ肥料だけを大量に散布したのを反省するのはいいが、なかなか芽が出ないので、すべてを根こそぎひっくり返せばいい、と思っているとしか思えない」と

同意、である。

私は、そのことばを聞きながら、明治の時代の野口英世を押し上げた村の人々のことを思った。あの貧しい時代、天才の芽を育てるために、村総出で資金を持ち寄り、彼を押し上げた。野口自身は破天荒であり、その思いを幾度も踏みにじったのではあるが。
いま国の心は、あの貧しい未開国の明治の時代の人の心よりも貧しいのかもしれない。未来へつながる、まだ出ていない芽を摘み取ろうとしている。気がついてはいないのかもしれないが。