続く激震15/ある対話(2) 世界で一番より、世界で一つ

昨日、文部科学省での面談の後、駒場でのもうひとつのセミナーの為に、大学へ戻った。
午後6時、セミナーを終えた後に、今回の事業仕分けについて、学生と話がはずんだ。
そこで、今の学生がどのような思いで、事業仕分けを見ているかを聞いた。

「世界で一番でなければならない、っておかしいんじゃないの?というところが大きく取り上げられた。
それへの反論として、科学者の側から「一番をめざさなければ、二番や三番にもなれない、たちまち100番以下に転落する、ということが正しいかのように、取り上げられているけれど、どうしても違和感がある」というのである。

私も、「一番をめざせ、あるいはノーベル賞をめざせ」というのは、科学としておかしいという思いでいたので、会話をつづけた。
そもそも、一番をめざすとは、そうならないければ敗北を意味する。あるいはノーベル賞をめざし、取れなければそれは敗北を意味する。
それは期待する側の気持ちとしては分かるが、研究する当事者の「こころの基本」は、科学ならば、「知りたい」、技術ならば「役に立ちたい」である。
そこに一番という序列や、賞ということが入り込むのは、不純である。こころが曇る、歪む。
その歪んだ心が、ねつ造事件の温床となる。
科学における競争は、スポーツのような順位ではないのである。目標は賞という勲章ではないはずである。

「世界で<一番>ではなく、世界で<一つ>」のはずである。

それが、とてつもない重要な発見や発明であった時に、結果として「一番や、勲章がついてくる」
その基本的スタンスから外れている。
そもそも、昨今の数値を追いかけて、なにもかも単純に評価する競争は、完全に度を超している。

「世界で<一つ>」をテーマとした歌が大きな感動と勇気を与え、大ヒットしたではないか。
私は、カラオケの一場面を思い出していた。

<そういえばしばらくカラオケにいってないな〜>