学会とはなにか?(4)

戦う上での原則を整理して、とにかく学会の折に全国の院生達、ポスドク達に集まってもらうことからである。
すでにそのような集まりはあったが、もっとはっきりと学会への申し入れなどを確認するとともに、自分たちの現状を把握する必要がある。
それからもう一つ、そのような集まりの時に強制的なことをしても意味はない。
全ての大学から誰か出せ、などというのはなしだ。
社会的な問題などに目もくれずにただひたすら研究に没頭も当然ありなのだ。
問題に関心を示し、なんとかせねば、という人が集まってやるしかないのだ。

目標は、院生会費を設けさせること、そして全国のポストの公募を促すべく、全国学位取得者リストと博士論文のテーマと印刷、それを配布することにした。
当然にもどこの大学で学位が何人、それらの就職状況は?などが一目瞭然となるのである。
それは暗に、公募のない状況における大学間格差などが明らかとなる意味もある。
そして、それらのリストを、評議員会の偉い先生の募金と交換で配布したのである
もちろん全国の希望者にも。

学会の時の院生の交流も活発化した。
学問の意見の違いは持ち込まない、との原則は学会への要求について話す時のことである。
夜、飲み会になると、それぞれの大学の教員の噂が最大の酒の肴。多分、今も昔とかわらないだろう。
その中では、当然にもプレートテクトニクスを巡る激しい相克がやはり酒の肴となった。時には口に泡を飛ばした議論も展開される。
そうして、交流が深まり、若手の中だけの「垂直vs水平」などの討論会も組織されるようになり、実に多くの院生などが全国から集まったのである。

私はたった2年間の間だけ、学会の院生評議員を勤めたが、その後、引き継いだ後輩達の努力で、院生会費は実現した。また、単に私たちの分野だけでなく他の多くの分野の努力でほとんど全ての教員の職の公募は当たり前となった。国際雑誌も実現した。
歴史は確実に前へすすんだが、時代の新たな波風は一層激しく吹き荒れているのである。

私個人のことでいえば、学会評議員会でいろいろ文句をいいレッテルが貼られてしまった。
研究としては当時多くの大学の教室の教員が反対をしていたプレートテクトニクスに組してしまった。
世の中はコネ人事横行。
学位は取り、ポスドクとなった。しかし、その先が見えない。
すでに妻子もあり子供もどんどん大きくなる。
私は、民間へ就職する準備と決意をしはじめていた。
そこへ、珍しく、公募が舞い込んだのである。
プレートテクトニクスで構造地質の人」
四国の香川大学教育学部であった。当然にも1も2もなく飛びついた。
そして、幸いにも採用していただいた。
以後、私は学会のお世話に仕事からは遠ざかり、単なる参加者となった。
世界の様々な地と学会を経験した。
そして、再び学会の運営に携わるようになったのは、12年も経って、大阪へ転出してからであった。
再び評議員となり、参加した。

今度は少しは世の中が見えるようになっている。
そして、「ええええ??」と驚いた。

(つづく)