四川省地震で考える。

四川省地震に対する学会としての対応に追われて、明後日から地球惑星連合大会に突入する。

時にどうしようないほど暴虐なこの地球の上であまりにも無力な人間。
再び、三たび思い知らされる。
起こった場所はしかも中国。日本の中で起こった時のようにすぐに駆けつけることはできない。

何も出来ないことに歯がゆさを感じながら、それでも何か少しでも出来ることはないか、と考える。
科学で貢献する。それは勿論であり、それが税金を使って科学をしているものの最大の責任である。

しかし、それすらも大きな力とはなりえないので相次いで自然災害は発生する。
地震は予知できなかったのか!」
「建物の崩壊は予想できなかったのか!」
紙面を怒りが覆う。
命を、財産を奪われた者の当然の怒りだ。

「建物の崩壊、それはかなりの確率で防ぐことができる」と現代建築学は教える。
しかし、地震の予知は現状の科学では極めて困難であり、だからそれは地球科学の悲願でもあり、可能になるように全力を挙げている。
地震の予知は不可能である」といって思考や努力を停止してしまっては、それこそ永遠に可能にはならない。
科学はそのような「不可知論」はとらない。


アフリカ脱出より5万年の人類。
文明を獲得してから5千年程度の人類。
科学の成立から5百年に満たない人類。
そして、知の爆発から百年程度しかまだ経ってはいないのだ。

この百年とは、世代にするとたったの三代ー四代程度なのだ!

奮い立て、四代目、五代目、そして六代目!

人類進化と爆発的繁栄の鍵は「知ること」にあった。
「知ること」が全ての困難と恐怖と怒りから解放する道と信じる。