サハリン・犬物語(2)消えた子犬

赤ら顔の灯台守ロシア人が二人と犬5匹。
彼らとのほぼ一月の生活がはじまった。
犬はもちろん家犬ではない。外でつながらずに生活している。
5匹の他にもう1匹いるらしいのだがあまり印象にない。
食事は雨のとき以外、暗くなった後の夜の食事以外は外である。
爽やかな朝等、外での食事は気持ちがよい。
灯台の近くなので、当然すばらしい見晴らしだ。
オホーツク海、最北部の風景を眺めながら。

おまけにサハリンの最北端は、基本的に背の高い樹木はなく、ハイマツの低木と高山植物の世界だ。
樹がなく、晴れて見晴らしがいいと、どこまでも見え、かつ距離感がない。

ただ私にとってうっとしいと思ったのはその犬たちである。
毎朝寄って来る。とにかくまとわりついて来る。
おまけに序列四番目の犬は歯を立てる癖があり、ぺろぺろと舐めるついでにちょっと噛むのだ。
「あっちいけ!」「ぶ!」などと対応していた。

一緒に過ごし、灯台守とメリニコフを介して話を聞き、観察していると犬の序列が見えて来る。
ボスは、一番歳をとっているおばあさん犬だと言う。
見るとガラガラに痩せ、あばらが浮き出ている。おまけにいつも寝ていて、すり寄ってもこない。
二番目はその息子。彼は見ていて私は最初、ボスだと思った。体格も一番だ。
あいさつも最初、食事もちょっとだけ最初、そしてその順番を他が崩そうとすると、「ウウ!」と怒る。
「どうして、いつも寝ているばあーさんがボスなんだ?」
と私には分からなかった。


三番目は、二番目の妻のメス。
これはわかり易い。
四番目は、彼らの一人息子。ボスばあさんから見れば孫である。オス。
こいつが軽いやつで、噛む癖のあるやつだ。
そして序列の最下位が、まだ生まれてそんなに立っていない子犬である。他にもいたのだそうだが、この1匹だけが残ったという。

さて、私たちはこの灯台をベースにして毎日歩いて調査に出かけた。
もちろん最北の地に車で走れるような道路等ない。そもそも人が他に住んでいないのだから。
10年くらい前まで、灯台から20キロ程度離れたところに樺太アイヌが魚を捕り暮らしていたというが、その人たちもいなくなったという。
従って、完全に自然の世界なのである。
だから熊もいる。たくさんいる。

調査に出る時には、メリヌコフが必ず銃を持っていく。
私たちは銃など打った事もないし、持ちたくもない。
しかし、熊は恐い。
そこで、いざという時に熊よけになるという、唐辛子ベースの粉の入った強烈スプレー(試したら20メートルは飛ぶ)を腰に下げ、イザという時に備えるのである。

犬たち。
私たちが頼んだ訳でもないのに、なぜか犬が私たちについてくる。
海岸に降りたりあがったり、1日に長い距離を歩いて往復するのである。
行きは食料をリュックに積め、帰りは研究用の石をかついでかえって来る。
彼らのための食料等、よけいなもの、持っていく事等する気もない。

その犬のついて来方が決まっているのだ。
ボスのおばーさんと孫の序列第四番の組、そして序列二、三番夫婦とまだ幼い子犬、という組で一日交替でついてくるのである。
彼らが勝手に判断して、私たちの調査隊と灯台守の両方を見ているかのようである。

そんなリズムが出来上がったある日。夫婦犬と子犬がついてきた。
子犬はほんとうにまだ小さい。必死である。
しかし、親でも決して助けない。遅れても待たない。その夫婦も必死になってヒトについてくるのだ。
見通しが良いといったってそれは人間にとってのこと。その子犬にはほとんど地面しか見えないはずだ。
海岸で崖をわたらなければならない時など、私たちは海が浅ければ徒渉する。
しかし、彼らは冷たいオホーツクの海には決して入りたがらない。
崖の上の山を大回りするのである。

私たちはそもそも彼らがついてくること自体、うっとおしく思っていたので、あまり気にしないでいた。
しかし、いつの間にか子犬の姿が見えなくなった。
時間が過ぎて、もう帰らなくてはならない。
暗くなると危険だからだ。
熊は夜行性であり、徘徊し始める。調査地ではあちこちに熊の足跡があり、昼間彼らの姿は見えないが、どこかで彼らは私たちを見ている、あるいは寝ている。

私達は、ちょっと子犬のことが気になったが、探す事もせず帰りを急いだ。
その夫婦の犬はちゃんとついてくる。
そして、日が暮れる頃ようやく灯台についた。
しかし、子犬は戻っていないし、完全に日が暮れても戻ってこない。
夕焼けのシルエットに、私たちの歩いて来た踏み分け道を眺める母犬の後ろ姿が映し出されていた。

灯台守たちが心配し始めた。ライトを持って照らしたはじめている。

私は少し後ろめたい気持ちになっていた。
「まずいぞ!戻らなかったら。日本人のあの隊長は、なんて冷たい奴らだと思われるかも。いや勝手についてきたのだから関係ない!」などとつまらないことも頭をよぎったりしていた。

1日の疲れを癒すものはあれしかない!
ロシアと言えば、ウオッカ
ヘリコプターで一ヶ月分は運んであった。
そして、目一杯飲んで、酔い寝てしまった。

そして朝になった。
何やら、騒がしい。

(つづく)