サハリン・犬物語(5)追撃!

私は手にした双眼鏡で戦いの様子を見ていた。
熊の鼻先とばーさん犬の距離は、文字通り「目と鼻の先」である。
歯茎を出し、牙のむく様子まで見える!
しかし、彼らが双眼鏡の視野から一瞬にして消えた。

そして、ひときわばーさん犬の大きな叫ぶ声が響きわたった!
「何が起こった?」

あわてて、双眼鏡から目を離して、小さくしか見えない彼らを追った。
「オオオオ!熊が逃げていく!」

超接近戦で、一進一退の応酬を繰り返していたが、実は犬たちはじりじりと熊たちを追いつめていたのである。
海岸は、海と崖に阻まれ狭い場所であった。しかし、熊はじりじりと後ずさりし、やや緩い斜面に差し掛かっていたのだ。
恐らく彼らが海岸に降りた場所に違いない。

二頭の熊は、身を翻し、その斜面を駆け上っているではないか!
「速い!」
あの巨体の熊は驚くべき勢いである。

それを我らが小さな二匹の犬が、大声を張り上げながら、追っている!
熊はついに崖をのぼりきった。

そこは、今私たちのいる海岸沿いの崖の上につながっている。
距離は、数十メートルか?

「こちらへ逃げて来るとまずいぞ!」

犬たちものぼった。
そして、なおも吠え続けている。
そして、私たちと反対の方向へ、追いやるようになおも追撃をつづける。

一度逃げてしまった熊たちは、もうたまらない。
300メートルはある、山の上へと一目散に逃げていく。
それを更に追い続ける。
その様子は樹木のない斜面の這松の影に見え隠れしながら手に取るように見える。

「深追いするな!」
私たちは祈るような気持ちでその様子を見ていた。

そして、ついに遠く山の上まで追い続け、熊ですら点として見えない遥か彼方までいった。

そして、犬たちの吠える声がやんだ。

私は双眼鏡で探したが見えない。

でもすぐに見つけた。
すぐそこまで戻って来ているではないか!!

「おお!無事だったか!」

二匹の犬たちは、私たちのところへ駆け寄って来た。
口から大きく舌を出し、激しく息をしている。
それでも千切れんばかりに尾を振っている。

「良くやった!」
あまりにもの感動で、私は彼らに抱きつき、思い切り顔を押し付け、体をさすった。
皆も次々と二匹に抱きついた。

彼らの激しい鼓動が伝わる。
彼らの激しい息づかいが耳元に響く。
彼らの毛並みは、汚れていてベトついたがそんなことはどうでもいい。

「リュックを空けて食い物を出せ!」

彼らには、食べ残したパンの耳程度以外、一度として真っ当にえさを与えた事のなかった私であったが、この時はさすがに目一杯食べさせてあげたいと思った。

私たちの食料といっても、黒パンと50センチくらいのサラミソーセージと、コンデンスミルクの缶詰だけである。
「水をやれ!」「コンデンスミルクを空けろ!サラミを半分に切れ!」

彼らは、むさぼるように、水を飲み、甘いコンデンスミルクをぺろぺろと舐めた。

そしてようやく落ち着きを取り戻したのである。

その様子を見ていて、私は、なぜこのバーさん犬がボスなのかをはっきりと理解した。


そう、それは「見てくれ」ではないのである。
普段は寝てばかり、あばらも浮き上がり、毛並みも悪い。どうみても歳だ。
しかし、「いざ鎌倉!」という時に、最も冷静に、かつ最も勇気を奮って先頭に立つ。
一切の動揺、逃げ腰を見せない。命をかけている。しかし、普段は君臨しない。

これまでの犬との生活を通して、私の犬観は、いや人間観すら全く変わった。
なにかとてつもない大きな事を学んだ。

(この時の調査の様子、エリザベス岬やサハリン最北端の風景、そしてこの勇気ある犬たちの姿、おまけにその時の私たちの姿等は、同行した広島大学の早坂康隆さんのサイトにあります。そこにもこの事件のことが紹介されています。http://www.geol.sci.hiroshima-u.ac.jp/~geotect/hayasaka/sakhalin.html#%93%94%91%E4%8E%E7%82%C6%8C%A2

サハリンの調査を終えて、1ヶ月ぶりに帰国した。
そして、旧友である地震研究所の瀬野徹三氏と久々に会い、根津でのみ、カラオケに行った。
そこにも犬がいた。

「え?!なにこれ?」

(次回は最終回の後日談です)