追憶:私とうどんと讃岐(12) 国境はうどん境

突然の叫び声に皆、テントを飛び出した。
「どうした!?」
「先生、あれを見てください!」
そこには古びた石作りの碑がーー。
「え!?ーーーー! ここは墓場じゃないか!」
私たちは、勢い良く河原に車で乗り込み、適当な広場だったので、そのままテントを張ったのだった。
「墓だからってどうってことないじゃないか。出る訳じゃあるまいし!」
「でも、白い装束の行き倒れたお遍路さんの幽霊が出るってーー、四国ではあちこちに昔からーー、ほらあそこに白いもがーー」
「ええ??」
「君のような県下随一の女流剣士が何を恐るるか!」
そういえば、私が赴任した時に、その前年に起きた大渇水で、渇れることのない弘法大師が作った千年の池「満濃池」から女性の死体があがり、それ以前に多くの人が見たという幽霊の話は迫力があった。今でも地元では本気で語り継がれている。
満濃池の幽霊と入れると、yahooでもgoogleでもトップヒット。たとえばhttp://090ver.jp/~usoriro/54/090.htm
そんなものを信じない私でもゾクッとする話だった。
そんな話が持ち切りの時だ。おまけに彼らは考えてみるとまだ20歳。<そんな年齢では、箸が倒れても笑う年齢ではないだろうが、幽霊話はまだ怖いかな?>とちょっと配慮。
「しゃーないな。んじゃ、皆と同じテントにしなさい。代わりに私がそこへ行く」
私は、幽霊なんかより北海道での山奥で一人でテントを張った時の熊に対する恐怖の方がよっぽど怖かったとの記憶がよみがえった。
そんな時の対応策。一人、テントに入り、えいや!と更に酒をあおり寝入った。

<え?幽霊が恐かったのかって?そんなバカな!?>
<だったらどうして酒をあおる必要があったんですか?>
<うるさい!>

翌朝、明るくなって起きてみると、確かによくぞこんな所にテントを張ったもんだと我ながらあきれたが、四国もよくよく見ると自由にテントを張れるような場所は限られる。
翌日、大歩危小歩危から祖谷に入ったが、うどんはどうもうまそうに見えない。
祖谷そば。つなぎの少ないこの手打そばはここいらの名物だ。
「ん、うまい!もう一杯!」

そして高知に入った。
四万十帯の最新事情を聞くために高知へ。
今をときめく、高知大学を訪ねた。
平朝彦氏、岡村真氏が出て来た。その時四国では有名でもあり怖くもあるという故甲藤次郎大先生も出て来た。
「やーやー、良く来てくれました。四万十の巡検とか。これから案内しますよ」
私は見学すべき場所だけを聞くつもりであったが、平さんが案内するという。
大変恐縮したが、せっかく案内してくれるというので、甘える事にした。
手結、安和のメランジュを案内していただいた。
その両者とも、1981年にNHKの日曜のゴールデンタイムに放送された「動く大地の物語」で紹介され、日本中にプレートテクトニクス付加体が一気に普及することになった舞台である。
その露頭のすばらしさと、平氏の明解な説明に大変感動した。
数年後に私も四万十帯の研究をはじめ、それ以降つづく彼らとの親交のきっかけとなったのである。
更に、実はこの時相見えた岡村真氏は、実は大のグルメ教授。
その後、長年にわたってそこでも親交をいただくこととなった。
「ところで、うどんのうまいところ高知にはありますかね?」と聞いたのがきっかけだ。
「それはやはり讃岐でしょう。いいとこ案内してくださいよ」
と逆にたずねられてしまった。

おまけにその巡検の時に、海の幸をめざして密かに忍ばせていた竿。
「ところで、今日はどこへ泊まるんだい?」と甲藤先生が聞いて来たので、
「海岸でキャンプです」
「え!キャンプ!どうして?」
「ええー、実は朝一番で、キスを狙おうかとーー、学生が好きなもんで」
学生のせいにしたが、実は釣りたいのはもちろん自分。
「おお!釣りをするんだ!」
実は平氏も岡村氏も大の釣り人。四国は周りが海なので皆釣りをしていたのだ。
それはやがて、当時愛媛大学にいた鳥海光弘氏をも巻き込んで、四国大学地学関係釣り大会へと後につながって行くのである。
この巡検で、県の境目を超えると、うどんの食文化が隔絶していることをはっきりと理解したのである。
まさに、「讃岐」うどんであると。

翌朝はどしゃぶりの雨。しかし、めげる事なく、夜明けの砂利浜に遠投!

(つづく)