阪神淡路大地震から14年

阪神淡路の大地震から17日は14年である。
私は、あの朝は大阪の堺にいたのでありありと思い出す。
朝、5時56分、突然の大揺れで飛び起きた。私らは古い教員住宅の一階に住んでいたので、下手をするとつぶれるのではないかとの恐怖が襲った。
すぐに子供の寝る部屋へ飛び込んだ。
幸いに、家具も倒れる事なく、やがて揺れは治まった。
私は、すぐにテレビのチャンネルを入れた。
まだ、なんのニュースもない。
やがて、関西の神戸あたりで大地震があったらしい、との報道が流れ、ヘリコプターが飛んだという。
そして、空の上からの中継がはじまった。
まだ夜明け前であり、街の明かりは消えており、どうなっているのか良くわかりません、との報道である。
「火災が起きている模様です!あちらでも!こちらでも!」
やがて夜明けがやって来た。
冬の朝は遅い。未曾有の大惨事と悲劇の始まりであった。
そそくさと、朝食を済ませ、私は大学へ向かった。
朝、9時からその日は、講義をすることになっていたからだ。
大学へついた。しかし、誰もいない。
いつもなら、正月休みも終わり新たな年の勉学への決意も新たに、講義を受けに来る学生でキャンパスは一杯のはずである。
職員もいない。

通勤通学の電車は完全にストップしているのである。
私は、不安になり、西宮に住む、同僚に電話した。
しかし、何度掛けてもつながらない。昼を過ぎてもつながらない。
テレビの報道は、「死者が出ている模様です。高速道路が倒れています。ーー」どんどん明らかとなる被害の大きさを刻々と伝えていた。
私は、その同僚が気になり、現地へ出かけたのは三日目であった。

電車は、大阪から途中までしか行かない。後は歩きである。たくさんの人がリュックに支援のものを抱えている。
大阪梅田の街は、何もなかったかのようににぎわっている。しかし、神戸に近づけば近づくほどどんどん被害が広がる。
その奇妙なコントラストに不思議な気持ちに襲われた。 このような大惨事もちょっと距離が違えばこんなにも違うものかと。
街は古い建物と新しい建物の被害のコントラストも明瞭であった。
古い建物は、神社等も含め軒並みやられている。そこに長く住む同僚は、1970年代前半までのものはかなりやられた。
新しいものは西の宮では、ほとんど大丈夫だったという。
しかし、水道、ガス、電気などのライフラインは全て駄目になり、幸い地下水をくみ上げていた彼の家は近所に水を配っているという。

そして、死者は6000名にいたることとなった。
地球科学を研究している私にとって、この地震はもちろんただの他人事ではなかった。

私は直接は関わってはいなかったが、その後、「地震予知研究」に対するきびしい世論の目がはげしく注がれることとなるのである。