ピンチはチャンス

昨夜は、9時過ぎから学生をつれて上野の「すしや」へいった。
博士、修士修了祝いではなく、一晩だけの中休み。皆、不眠つづきなので、うまいもん食ってエネルギー注入のため。
<まだまだ続くぬかるみぞー!>って歌の気分で。

目の前で握る寿司屋のちょっと男前のにーちゃん。
「何年やってんの?」
「握り始めて4〜5年ですかね」
学生A「一人前になるのに何年かかるんですか〜」
おにーちゃん「昔はシャリに10年、握りに10年なんて言われたけど、いつまでたっても一人前じゃありません〜。一生続くと思ってます」
学生A「エエー!?じゃー、どうして握ってるんですか〜?」<ストレートな質問だ!その正直さがいいんだが。ハラハラ>
おにーちゃん「最近は人が足りないので早くってね〜。昔は、出来ないと足蹴にしたり、たたかれたり。でも、そんなことしたら若いもんは皆逃げていきますから〜。それで人が少なくなって、ちょっとでも出来るようになると店先で握る事になるんです。すいません。会社では絶対に暴力は使うなって言われてるんです」
私「ほんと、やりにくい時代だね〜。手を出さなくても、ちょっと叱ると親が出て来たり、当人が出てこなくなって来たり。最悪自殺したりする。こんなに柔で生きて行けるのかね、人間?」
学生B「最近はちょっときつい言葉で叱ると、アカハラだセクハラだ〜、って大変ですよね、先生も。最近も○●大学で○●先生がクビー、××大学では××先生が処分、って」
私「昔は、小中学校では、ちょっとふざけて脱線して、他人の人格や体を傷つけると、先生はゴツンと来て軌道修正をしたもんだ。でも、そこには明確な抑制が働いていた。感情を込めない。げんこつなんかでやらない。平手でちょっと圧力をかけるとか。すばやい瞬間わざで刺激を与えるとか。その抑制に「愛のムチ」を感じていた。感情丸出しのケンカ暴力とは明らかに違った。私も何度もやられたけれど、肉体的な痛みより、自分が間違っていたという思いで心が痛んだ。最近、なんか変だ。クビになるケースは感情込めて暴走したりめちゃくちゃだ。教育もなんもあったもんじゃない」
(読者の方へ。誤解しないでください。私は体罰を肯定しているわけではありません)

学生A「私、こんなピンチ、いままでの人生で始めてなんですけど?」
私「ピンチはチャンス。失敗は発明の母。どんどん失敗した方が人間、人生は豊かになるんだよ。卒業とか、形とか外から決められた時間や枠の中にあわせて生きていたってろくなもんじゃーないと思ってる。でも、それをはずすと周りに大きな迷惑をかけるけどね。私なんかそればかりだった。でも、人生は人のためにあるんじゃない。少々迷惑をかけたって自分の人生が大事だ。でも迷惑をかけると浮くよ。それを分かっていればいいんだよ。迷惑は一生かけて返せばいい。
ところでいままで人生順風満帆?少し失敗した方が豊かになるかも?」

学生A「えええー!それってどういう意味ですか?」
私「最後の最後の最後まで、頑張れってこと、結果なんて、後からついてくるってこと。研究だってスポーツと同じ。全力を尽くして負けたって、ほら皆、さわやかに、悔いはありませんていうだろ?必ず次ぎにつながるってこと。たまに悔しくて涙まみれになるのもいるけどね。どっちでも次につなげるだろ?失敗を」「次の挽回のチャンスはプレゼンだよ!全力を尽くせ!あんたのすばらしくいいところは表裏なく真っ正直であること。ほらほら人気タレントの、あのあのーー<名前が出てこん!>」

私「はい!明日午後三時までにプレゼン案を作成して、やるぞー!今日は帰ってしっかり寝ろ!」
学生A「がんばりマース!」
私<ちょっと、言い過ぎたかな〜?酒も入ってないのに、この!説教おやじ教授。男は黙って札幌ビールがかっこいいよな〜。週末は札幌でそれにしよっかな?>(自問自答)。


というわけで午前様。
バタンキュー