流氷いまだ接岸せず

今朝のニュースで、北海道のオホーツク沿岸にいまだ流氷接岸がないという。
異例だ。またぞろ「地球温暖化」の言葉がささやかれ、地球科学的様相を呈する。

そのニュースを見ながら、昔、その地を歩き回って地質の調査をした日々を思い出した。
オホーツク沿岸は、低い丘陵のつづく、最果ての地の空気の満ちた地である。

しかし、それは地殻変動という視点で見た時に、日本列島の中で最も安定したところであることに理由がある。
活動的な知床半島と、北海道からサハリンへとつづくプレート境界とも言える、これまた活動的な山地に挟まれた安定した地帯だ。
活断層等1つもない。地震を心配する人、大自然の満喫をしたい人たちにはおすすめの地である。

そのような安定した静かな大地に、日本とは全く異なる歴史があったことをどれほどの人が知っているであろうか?
司馬遼太郎の街道シリーズ38「オホーツク街道」に詳しい。

オホーツク街道―街道をゆく〈38〉 (朝日文芸文庫)

オホーツク街道―街道をゆく〈38〉 (朝日文芸文庫)

それは、東大近傍の37「本郷界隈」の続刊であることも何か因縁めいているので少し記そう。

時は、奈良平安時代
世界的に温暖な気候がつづき、日本でも「平安」と言われるほど安定していた時代だ。世界的には中世温暖期というらしい。
そのことを司馬遼太郎は触れてはいないのだが。

オホーツク沿岸には、日本人や原日本人たる縄文人の末裔やアイヌの先祖たちとは全く異なるオホーツク人という人たちが住んでいた。
アイヌの先祖たちとは明らかに異なる北海道独特の先住民だ。

網走のモヨロ貝塚の発見に始まる、歴史の大発見だったことだ。
流氷の民といってもいい。サハリンから下って来たと見られ、鎌倉時代以降になると、こつ然と痕跡が消えてしまう。
アイヌの人たちと同化したらしいと見られている。
平安時代の東北の雄、奥州藤原氏には当時の日本では決して穫れないアザラシやラッコの毛皮として残されており、はっきりとした交易の痕跡があるという。