学会とはなにか?(5)

なつかしい顔ぶれに久しぶりに逢える、ということを楽しみに出かけた。
また、科学の発展のためになにがしかのお手伝いができる、というのも楽しみで出かけた。
ところが雰囲気がおかしいのである。
今や昔となったので、どのような中身であったかよく覚えてはいない。
言い合いをしているのだ。空気が凍り付いている。
口を開くのさえはばかられる。
学会を運営する側と、そうではない側が言い争っている。
私はよく事情が飲み込めない。
しかし、聞いていると運営する側ではない側の方が正論のように聞こえる。
そこで、それを支持する発言をした。
すると、突然、運営する側から強烈な反論を食らった。
「何を実現できないことを言っているんだ!」
こちらは極めて冷静にいったつもりであったが、口をふるわせ、唾が飛び出す勢いの反論である。
「切れている」のである。
本当に驚いた。大昔、院生だったころに大御所に言われた言い方と何ら変わらない。
しかし、それからもう10年以上も時が流れ、運営する側も変わり、随分と若返った。昔院生だった頃、苦楽をともにした仲間だと思い、久しぶりに逢えるとのなつかしい思いでいた人から反撃を食らったのである。それは大変なショックであった。お役所へいって、傲慢な役人に対応されたような気分。極端に官僚的なのである。なぜなのか理解できない。

「自分たちは時間を潰して学会のために働いている、たまにやってきて普段責任を持たないが側が勝手なことを言っている」という気持ちが透けて見えるのである。これはボランティアによって支えられている組織にありがちな運営する側の論理である。自分たちは時間を削って皆のために働いている。その中身が不十分で不満が出た時に、その、「人のために時間を潰している」ということが裏目に出て「傲慢」が生まれるのだ。「自分は犠牲を払っているのだ。不十分でも我慢しろよ。文句を言うならやれよ、働けよ」ということであるのだ。それはわかる。しかし、言い方というものがあるだろうと思った。そして、これではものを言う気にならず人は離れるな、学会は衰退するなと思った。

会社からは給料をもらう。すると嫌な仕事でもやらざるを得ない。しかし、嫌な仕事をすすんで出来るはずもない。組織の上に立つ者は仕事の目標なり、使命感なりがある。だから仕事に生き甲斐が生まれ、頑張ることができる。しかし、そうではないものはなかなか進んで仕事はできず、ただただ給料のために働くだけに流される。そして上に立つものとの間にギャップが生まれる。上に立つ者は組織として仕事をすすめることが出来ず、いらだち、時にパワハラ事件が起る、あるいは大反撃が生まれ労働争議が起る(昔ならね)という構図と似ている。学会組織は基本的にボランティアによって成り立っているのではあるが、学会運営において「自分は犠牲を払っている、しかしお前達は払っていない」という違いが、傲慢さを生み出し、組織一般における上下と同じような現象が生まれるのである。ただし、会社と違い、学会は嫌ならば参加しなくてよい、別に学会をつくればいいだけである。多様な意見を吸収できなければ衰退するしかないのである。事実、戦後、学会の分裂が次々と繰り返されてきた。

学会に参加する研究者の一般的心情を考えてみよう。たとえば、大学における仕事を例にしよう。研究だけをしたい。研究以外のことはなるべくしたくない。会議はさぼりたい。講義はなるべくしたくない。事務手続きに煩わされるなんてとんでもない。学生の教育は自分の研究成果につながること以外はしたくない。という感覚が根強くある。昨今のように研究が自分の中から沸き上がる欲求だけですすめるのではなく、評価という名の強制によって締め付けられるとなおさら、このことが助長される。研究以外の仕事は雑務と呼ぶようになる。雑務は本務(研究)のじゃまもの以外のなにものでもないということとなる。これを研究エゴという。研究至上主義といってもいい。このような人間だけが集まると組織は機能しなくなる。自分の研究のことだけしか見えなくなり、それにつながること以外では誰も働かなくなるからである。
ネガティブなことばかりを記したが、これをポジティブな方向へ転換できなければ大学も学会も発展がない。どうすればいいのであろうか?