日本辺境論

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

最近売れているというこの本。ポスドク学生によると、サイトも結構人気で見ている人が多いとのこと。ちなみにその元学生は、その「皆がいいといっている」ことが、「ちょっとね」とあまのじゃく。あまのじゃくも世の中には必須。迎合者だけでは面白くないからね。でも論理的であらねばならない。

ま、そんなこともあって、久しぶりに専門から離れて本を読んだ。これも海外出張のなせる技。日本じゃ〜、こうはいかない。飛行機の中で寝ていても、時差ぼけというのが深夜。冴えた時間を生む。

面白いというか、率直な感想、卑屈でもなくおごりでもなく、気が楽になる。国際的に交わることの多いこともあり、実に良く分かる。

自然科学では、しかし社会科学や思想分野と違うところがあるように思う。

それは、自然そのものとそれを写し取った科学との関係だ。どうやって写し取るか。
そこには、帰納と演繹があり、観察、実験、理論により仮説を転がし、理論として作られた科学の体系を発展させるという普遍的科学方法論がある。その普遍的方法には西洋も東洋も発展国も途上国も中心も辺境も区別はない。演繹というプロセスには、確かに先進からの輸入という側面が強いし、明治時代の日本の科学はほとんどそれであった。しかし、自然そのものに接し、事実を整理することから出発する帰納という過程には、先進を超える限りない芽がある。なぜなら写し取った科学より、自然そのものが豊かであることに疑いがないのだから。それが科学というものが発展をつづける決定的根拠だ。その帰納による無数の事実の整理から、既存の理論体系をひっくり返すような発見が生まれる。科学の発展におけるほとんどの発見はそのような従来の理論体系の中では説明できない「矛盾」から生まれた。その発見の芽につながる「直感」には先進によって作られた既存体系への「反骨」が大きな役割を果たす。観察や実験におけるテクニックももちろん関わる。単なる反発や怨嗟などではない「骨のある反」。それが「辺境における反骨」であるはずだ。そもそもの科学におけるフロンティア精神とはそのようなものであると思っている。この「直感」の中身とはなんだ」という突っ込みがポイントであるということが、著者が後半の哲学的議論で展開していたカントだ、ヘーゲルだハイディカーの「学び」への違和感であると、私は科学に照らして読んだ。言葉は全く違っていてもきっと似たようなことを言っているのだと。

今日から、この分野でもいろいろと複雑な日米関係の場面が続くが、いいタイミングで読ませていただいた。私はやはり若者にもこの本を読んでいただき、是非、賛成反対なんでもいい、議論を旺盛にすることを願いたい。

時差ぼけのサンフランシスコより。