職業としての学問

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

古典。先のブログ最後のつづき。文庫で74頁と短い講演録。
昔、読んだ時は、良く分からなかったが、「とにかく専門に一心不乱(それを三昧境と翻訳者は表現)にのめり込め、チャラチャラするな」と書いてあったと記憶する。そして、「就職できるかどうか、昇進できるかどうかは、僥倖(思いがけない幸運)」なのだと。

それから長い時を経て再び読むと、この書かれた時代がより見える。そして私の読んだ時もまさに日本社会も時代の争乱の時であったと見える。今は争乱の時代ではないが、とてつもなく困難な時代に突入していることは似ている。
ただ、この時代のドイツ(第1次世界大戦で敗北し、世界恐慌に突入し、やがて未曾有のナチスドイツによる第2次世界大戦突入前夜)では、学生たちがその時代の突破のために激しくうごめいていた。その激しく葛藤し、行動する学生たちを前にした、これもまた激しい演説録だ。

大学人という職業について、研究と教育は違う、という。名教育者、必ずしも名科学者にあらず、という。それはそうだが、ファインマンをはじめ、20世紀の膨大な経験は、多くの両立を生み出した。

教育者、必ずしも指導者にあらず。それもそうだが、20世紀の大規模組織科学の発展は、科学者、教育者、組織指導者の統一の必要性を生み出した。籠って一人悶々の科学者像の時代ではない。

教育と政策煽動を混同するな。それもその通りで、多様に存在する政治や宗教に関わる主観を単位によって拘束されている学生の教育に持ち込むなということだが、科学政策や科学と社会に関わる事をも含めて考える必要性のある教育は時にはあり得るし、それはある種の責任でもある。ここが当時でも大きな議論となったという。

そのほか、芸術と科学の共通性と違いなど多くの現代につながる論点が記されている古典の名著。