人生最大の大手術(4)-集中治療室の風景

集中治療室での二泊目。一泊目はほとんど寝ていたの周辺の状況など、分かり様がない。しかし、二泊目は両側の騒々しさに寝るところではなかった。

左隣、カーテンに仕切られ、こちらも顔を横にも向けられないのだから、会話とやり取りが聞こえるだけである。
女性。少々歳なのかもしれない。甲高い苦しそうに叫び、何やら意味不明の事を言い続けているようだ。対応しているのは看護師なのであろうか、実に巧みにかつ粘り強くやりとりをしている。恐らく激痛から何かを求めている。しかし、それはとてもかなえられるようなことではない。
「ここがどこだか分かりますか?」必ず聞いている。しかし、答えられない。
彼女もやがて落ち着いたのか、眠りについたようだ。
そして、その落ち着きと共に私の方もまた眠りについた。
翌日、看護師が、○○さんはきれいな人。働き続けているだろうか、などと話をしているのだけれど、痛さで、横向きにすらなれない自分。(そんな場合じゃないだろ!)


しばらくすると、今度は右側から、叫び声が聞こえる。
「はずしてくれ!!」
どうも手が縛ってあるようだ。
手で体の内外をつなぐチューブ類をはずそうとしているようだ。
「それをはずすと死んじゃうでしょう!」
「でも苦しい〜!死んでもいい!!」
「だったら外さないから、手だけ解いてくれ〜!」
聞いている方が息苦しくなって来る。

私の激痛の部位と、それへの一日の対応の中で教訓が生まれていた。
ある部位の痛みからの解放を性急に求めると自らがマッドになり、堪え難くなる事。集中治療室の風景はそれだと確信した。
激痛の中で、人生を病の苦痛との戦いの中で終えた北海道の女性作家「三浦綾子」の言葉を思い出していた。「この病と痛みは神が与えてくれたもの。そこにはメッセージがある」と彼女は病床にあって最後まで夫の力を借りながら書き続けた。
そういえば、三浦綾子の小説「氷点」との出会いは、私が19歳の時、交通事故で45日入院した札幌でもことだった。

そして今一人は、明治の文豪、俳人正岡子規
30歳にして肺結核で人生を終えるが、その病との戦いの中で残した壮絶な創作活動。
息が出来ない、深呼吸ができない、痰を切ろうとすると激痛が走る今の私の状況は、気管支炎と肺炎が襲った状況と酷似。その苦痛と激痛と闘った正岡子規の形相が浮かぶ。明らかに最近のドラマ「坂の上の雲」の影響ではある。

そんなことをちらちらと思いながら、激痛には「ただただ耐える」こと、深く考えない事、そのために別のテーマを考える事、など自分に課した。全ては目をつぶったままのわが心の中のやりとりである。

1)医療チーム
この看護チームはすばらしい。対応してくれる看護師は昼に夜に日に次々と変わり、名前等覚える暇もないのであるが、本質的なところは実に統一的だ。細かいことで重複やわずかな指示の違いがあったりするが、それは集団でやれば当たり前のこと。患者の立場にたっており、大学病院なのだが「官僚的」ではない。
個性があって、患者側の強い出方に対しての熟練度や個性の違いが、みなきっと良い肝っ玉看護師になっていくに違いない。頑張れ!
2)設備。
もちろん観測装置、モニター装置に関わるものは申し分ないだろう。新しい人工膵臓を使って私の血糖管理が試された。機器開発の業者張り付きで。ここはちっと面白いというか、ドキドキものというか。
どうも私がその装置を始めて具体的に使う対象らしいのだ。装置の使い方、リセットの仕方、信号の説明、マニュアル、良く読んどいてといって去って行く。皆フムフムと聞きながら、ハイ開始。点滴なども送られなくなると、機器はアラームがなる。集中治療室は常にどこかでアラームがなっている。この装置も同じ。
アラームがなる。看護師がやってくる。「あれ?リセットボタンがでない」マニュアル。分かんない。
何人かが駆けつけて来る。なにやら説明がされ、同席者フムフム。そして動き始める。でもまたすぐにアラームがなる。別な人が来て、また、ワカンナーい。
私は、この場面を過ごしながら、
「医学でも他でも変わらんじゃないか。新しい分析装置が入って使いはじめるときって皆おなんなじだな〜。」
「そういえば、この前買ったシリカ水分析装置、使い始めたかな?学生。発表した日本海溝巨大地震津波・水犯人仮説を強化する重要な分析だから」
なんて、自分らの研究に気が回る。
我が身、命さえ安全ならいくらでもサンプルとして使っていいけど、リセット手順くらいは意志の統一、あったほうがいいね。一般患者も安心するよ。
「目の前で、これどうすんの?」って会話、患者の不安助長だからね。

さてさて、そんなこんなで眠る事ができず、夜明け前、ようやく眠りについた。

集中治療室の予定は後一日だ。

(つづく)