ウクライナ 感

 ウクライナ騒動の激震が世界を駆け巡っている。私もその行方が大変気になる。しかし、それは単なる一般的な関心というだけではない。旧ソ連で最初にお世話になった通訳者がウクライナ人だったからだ。1984年のことだからもう30年も前のことなのだが。

 サハリンのユズノサハリンスクで、北海道・サハリン、日本海オホーツク海の大地形成をめぐるテーマで日ソシンポジウムというのが開かれた。地球物理の上田誠也先生や地質の岡田博有先生などがリードされた。日本ではプレートテクトニクスで盛り上がっていた最中であったが、ソ連アカデミーはそれに賛成しない人がほとんど。私もへたくそな英語でロシア人に噛み付くはめになった。
 以降、北海道を研究していた延長で、サハリンの研究をすることになった。それは1997年まで断続的につづいた。サハリンの調査はいつも何かが起こり話題に事欠かなかったのであるが、その話はまたの機会としよう。

 そのシンポジウムで、英語、日本語、ロシア語を自由に操る人がいる。日本語は特にうまい。俳句までしたためる。まだ若そうで年齢は私とあまり変わらない。大変楽しい人でたちまち意気投合した。
そのシンポジウムには、当時北海道を研究していたフランス人で、後にパリ大学の教授となったジョリベ氏も参加した。
 個々の意見は違ってもシンポジウムは大いに盛り上がった。本当にロシア人はアルコール(ウオッカ)が大好きなのだ。そして科学アカデミー会員のセルゲエフ所長から、私とジョリベ氏に調査をしたければさせてやる、滞在費は全部持ってやるから来年サハリンに来いというのだ。
 渡りに船とばかり、翌年キャンプをしながらサハリンを歩くこととなった。

 その時に、キャンプに同行してくれた一人がウクライナ人のメロン氏だった。そして食事の世話をしてくれる女性達、ロシア人地質学者、フランスから3名、日本から私と現在広島大学の奥村晃と大所帯の探検隊となった。毎日、調査の後にギターを奏で、歌を歌い、酔いつぶれ---。

 3つの国、いや、女性の一人は後に独立したグルジア人の女性だったから、ロシア、フランス、ウクライナグルジア、日本、と五カ国人の付き合いだったことになる。なぜか毎日とてつもなく楽しかった。

 真っ暗闇の夜の海岸のキャンプ。この季節、素っ裸になって飛び込むと、輪郭が光るという。オホーツクの海には夜光虫がいるのだ。

「さ〜!いくぞ!」サハリンの水温は真夏でも20℃! 
 見事に人のシルエットが真っ暗な海に浮かび上がった。

同行した女性も飛び込んだのかって?
 それがどうだったかは秘密にしようと皆で誓ったので、い・え・ま・せ・ん。

 そのウクライナ人のメロンさん。ソ連が崩壊した後に、独立したウクライナへ帰り、キエフ大学日本語学科に勤めることになったと伺った。どうしているのか大変気になるところある。
 ウクライナ人も、グルジア人も、極東ロシアには大変多いという。
あちらでもこちらでも長い歴史を引きずっている。

 若き日の大自然の中で経験した、薄明かりの下での一杯の酒とギターと歌さえあれば、国境や歴史などは見事に吹き飛び、人のこころは深く通ずる、というのは幻想であったのだろうか。