追憶:私とうどんと讃岐(5)坂東先生の突然の死

「坂東先生が倒れた!」
私はすぐには飲み込めなかった。
坂東先生は、香川大学付属高松小学校の校長先生も兼ねていた。
その、雪の降る寒い朝、朝礼で壇上であいさつをしている最中に突然崩れたという。
救急車で、市民病院へ運ばれた。

私は、慌てて駆けつけた。
すでに多くの人が集まっている。
「脳溢血だろう」という。

私は病院につききりで滞在した。
坂東先生には大変な恩義を感じていたからだ。



私が香川へ赴任できたのには不思議な経過があった。当時、日本の地質学界では、新しい学説「プレートテクトニクス」を巡って激しい論争が続いていた。私は、「北海道はどうしてできたのか?」「いまどうしているのか?」ということを研究して北海道大学から学位をもらった。しかし、それをまとめる過程で、大きな壁が立ちはだかっていたのだ。北海道大学の大方の教授たちは、この新しい理論に反対していた。しかし、私はこの理論にもとづいて北海道の形成過程を全面的に組み替えた。北海道形成史を、プレートテクトニクス理論と新しいデータにもとづき、東北海道がぶつかって日高山脈ができ、それは今も西へ及んで、石狩平野活断層などはその現れとし今も続いていると全面的に組み替えたのだ。

私に学位を認めた教授も、つねに「お前の話は気に入らない!絶対に認めない!」ということをあからさまに表明していた。それは彼らがこれまで積み重ねた研究を根底から覆す話であったからだ。学位論文提出の最後の最後まで、1字一句を巡って激しい攻防があった。このことは、いくつかの別のところにも書いたので繰り返さない。

しかし、その教授が定年の年であったこと、新しい理論をすすめる全国的な、そして北海道大学でも友人や、若手や、心ある教員の大きな支援があったこと、などいくつもの要素があって、予定よりも二年も遅れたけれども、私は博士になれていた。そして、1年間だけは学術振興会の研究員と認められ、その援助で研究が継続できていた。(今は3年が当たり前だが当時、学術振興会の研究員は1年限りであった)


しかし、それも切れる。

私は、教授とほとんど対立関係にあったので、新しい理論に激しく反対する人たちがいまだ多数を占めている学界にあって、「教授からの推薦で就職できることなど望むべくもない」と、思っていた。思う存分研究もした。学界で、研究上でいろいろいいたい事も言い切った。それを論文にもした。「教授からの推薦」が無理な以上、研究職への道は、果てしなく遠く思え、あきらめかけていた、すでに妻に食わしてもらって、5年になる。子供ももう四歳。30の坂も超えた。


「もう、いいよな?」私は自分にいいきかせ、春には民間企業へ就職しようとこころの中で決めていた。


そのような時に、香川大学が「構造地質をやり、プレートテクトニクスを研究している人」という、願ってもない教員の公募を発表したのだ。だいたい、教員を公に募集する事自体が珍しい。「構造地質+プレートテクトニクス」そんな募集も今まで見た事がない!


私は飛びついた。しかし、私と教授は対立している、ということはすでに学界で多くに知られていた。「上司に楯突くような人間はいらん!」と評価されたら終わりである。


しかし、坂東先生をはじめ香川大学の諸先生は、そのようなことは全く気にしなかった。むしろ大きな大学では、この新しい学説に反対する教授たちが圧倒的であったときに、1地方大学のしかも教育学部の理科の教室が、いち早く新しい学説を取り入れようという意気に燃えていたのだ。そのことが私を救ってくれたのであった。
このことに恩義を感ぜず、どうして人間と言えようか。ふるさとを遠く離れ、私らにとっては全くの異国の地であったが、香川大学に赴任して以来の毎日は本当に楽しく「夢の世界」のようであったのだ。毎日、坂東先生と食べ、大好物になってしまった「うどん」。そこで語る北極探検調査の準備はそれまでの北海道とは全く違う別世界であった。


その坂東先生が倒れた!
一瞬、私は目の前が真っ暗になった。

駆けつけた病院。集中医療室に横たわる先生の大きな体。体は暖かく、呼吸もしっかりしている。突然、「ああ良く寝た!ごめんごめん。さ!「うどん」食べにいこか?」といって今にも目を覚ましそうである。
しかし、「脳内の出血の場所が悪く、ちょうと左脳と右脳を分ける部分に大量の出血があり、中まで深く入り込んでいます。どうすることもできません」「今晩が山です」医者は無慈悲にもそう静かに告げた。悲痛な、どうしようもない重い空気が覆った。誰も何をどういっていいか「ことば」が見つからない。

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そして、坂東先生は、翌朝、静かに息を引き取った。

(つづく)