追憶:私とうどんと讃岐(6) 悲しみからの脱却

坂東先生が亡くなり、しばらくの間、呆然としていた。
寒風吹きすさぶ中で、あわただしく葬儀を終え、それからも長い間,放心状態であった。葬儀での、残された奥さんと、今だ学生と高校生である子供たちの姿はあまりにも痛々しいものであった。

時間が経ち、先生の部屋を片付けることとなった。先生は享年53歳という若さであったが、香川大学へ勤め始めて以来の全ての研究の資料や書類が部屋中山積みになっていた。典型的な片付けない研究者であったのだ。それから、ほぼ1年かけて時間を見て片付ける仕事を私はすることとなった。数ヶ月か経ったであろうか。机の引き出しを片付けていると、その奥から束になった手紙が出て来た。女性が先生に宛てた手紙であった。なにか見つけてはいけないものを見つけてしまったようで「ドキ!」とした。恐る恐る、その一つを開いて読んだ。それは先生の奥さんが結婚前に書いた手紙であった。先生がまだ院生の時であろうか、フィールドで調査に出かけた時に書かれた熱烈なラブレターである。そして最後に口紅で色づいた唇のスタンプが押してあった。私はそれを見た時に、膨大な書類の陰で、嗚咽がこみ上げて来てどうしようもなかった。それ以上もう見る事は出来なかった。
その手紙の束は、すべて奥さんに渡したが、いかばかりであったか、想像を絶する。


沈痛の日々が長く続いたが、それを打ち破ってくれたのは学生である。
その時に私にははじめて卒業研究を見る3人の学生がいた。
田中さん、小林君、川合君。彼らは私より10歳程度若い、ちょっと若い弟のようなものだ。
紅1点の田中さんは超元気もの。
香川県高校女流剣士。毎朝10キロもの道のりを自転車で通学している。噂によると、香川県一の受験校高松高校で成績も良く、東大も受かると太鼓判を押されていたけれども、「地で中学校の先生になる」と希望して香川大学教育学部を受験、トップで入学したという。卒業研究で、この3名には香川県で唯一の活断層「長尾断層の研究」というテーマを与えたが、彼女は春先の花見で有名な「亀鶴公園」という名所の中を一人、スコップとハンマーと長靴で断層露頭を探しまわっていたという。
「どうしてそんなに元気なんだい?毎日片道10キロも通い大変だろう?」
「いえ、毎朝きちんと食べてから動きますから」
「何を食べているんだい?」
「うどん、です」
「え!うどん?」
「家の近くに川島ジャンボうどん、というのがあり、そこから毎日、うどんを箱で買うんです」
http://www.e-sanuki.com/udon/shop/kawasimajyanbo/index.html
「それを家族みんな、毎朝5玉、お腹がすいた時は10玉は食べるんです」
「エエ!?」
私は卒論の学生を連れ立って、そのうわさの「川島ジャンボうどん」を訪ねた。
「うどんで一番おいしいのは「釜揚げ」です。ほとんど噛まずにのどごしが大事なのです」
「うまい!これだ!」
私は坂東先生に最初に連れて行っていただいた「びっくりうどん」を思い出していた。
しかし、それとはまたひと味違ううまさなのである。
讃岐うどんとは、店によって、味が違う、腰が違う、のどごしが違う。
それを知ってしまったら、もう抜け出せなくなるのである。

そして、春が近づいた頃、坂東先生が亡くなり、頓挫していた北極スピッツベルゲン島の調査が、代表者を北海道大学の中村耕二先生に変えて実施する、との連絡が「ニュートン」から届いた。ほとんどの調査の準備が終わっており、物品の買い込みもすすんでいたからだ。テーマを変えず、かつ私をそのまま同行できる人は、他にいないとのことであった。

1984年は私にとって、きしくも相次いで外国へ行く年となった。スピッツベルゲン島の調査の後は、イギリス、アメリカと回って返ってくる予定にしていたのだ。
アメリカへ行くには当時はビザをとらねばならない。そのためには神戸の領事館まで行かねばならない。
春になったある日、私は神戸まで行く事にした。
しかし、瀬戸内海の朝は深い霧につつまれていた。

(つづく)