ペレストロイカと腹痛(2)

とにもかくにも、サハリンでの食文化の違いと連日のアルコールと蠅が飛び交う中での清潔とは言えない食事が重なった結果である。
その日は、七転八倒しながら、アルコールの酔いもあり、寝ついた。
翌朝、
「おお!見事に腹痛が消え、けいれんも消えているではないか!」
「ロシア人の生活の知恵の勝利だ!」
<これが、社会主義の医療か?>などと心の中で言っている。
ちなみに、最初に知り合ったロシア人はheart attackですでに亡く、この所長も1990年に訪ねた時には、心臓がやられていた。
アル中の上の濃厚な食事の結果だ。
そして、同行した女性が、お腹を壊した時はおかゆがいい、と白米を出してくれたのには驚いた。
彼女は最近ソ連が干渉して問題となったグルジアからの人。ラテン系で髪も黒く、日本人にはなじみ易い。たどたどしい英語で会話をしていると、出てくる出て来るロシアの悪口。彼女の祖母は、グルジアでは貴族だったという。全財産没収の上にロシア革命によって追われ、結果として極東へ追放になったという。そして、おかゆがお腹を壊した時にいいということは、サハリンに多い韓国人から教えられたという。サハリンの韓国人は、多くは日本時代に移住し、第二次大戦後、ソ連によって日本人ではないということで帰国を許されず、残されたいわゆるサハリン棄民だ。彼らは移住の自由もなく、そこに住み着かざるを得なかったのだ。ペレストロイカによって国へ帰る自由が回復し、一方で大量の韓国製品が流入していた。二回目にサハリンを訪ねた時に、彼らが集まる宴会に顔を出したとき、皆日本語ができるのに驚いた。そう、彼らは子供の頃、日本語使用を学校で強制され、ハングルを話すと先生からビンタが飛んで来たという。言葉は、子供の日本語そのものであった。

さて、話を元に戻すと、そのときのおかゆのおいしさと彼女の優しさは忘れる事ができない。その彼女のロシア人に対するうらみとそれまで抑圧されていた思いは、その調査が終わり、調査隊がユズノサハリンスクへ帰った時に爆発し、大きな騒動となっていった。
連日のキャンプと調査で、へとへとに疲れていた私たちは、街へ帰ってホテルで体を洗い、ベットで寝る事を楽しみに街へ戻った。
しかし、である。
街に唯一のまっとうなホテルを予約してあったのであるがーーー、
そのホテルは軍隊が占拠しているではないか!聞いたところ何か事件があったわけではなく、単なる移動か何かだという。
そして、肝心の軍人は、鍵を持って、全員街へ飲みに出かけてしまった。
部屋は一杯である。
研究所の所長も、軍隊には逆らえないと決め込んでいる。
その時だ。
その私たちにとても優しく世話をしてくれたグルジア人の女性が、突然怒り始めたのである。なにやらロシア語でまくしたてている!ホテルの支配人はたじたじ!
ついにらちが開かないと見た彼女は、サハリン州のヒョードロフ知事に直接電話をかけたのである。
グラスノスチペレストロイカで認められた直訴である。
「彼女が知事の許可を取った!」と、大声で言っているという。
「鍵がなければ壊してもよろしい!」とも言ったという。
彼女は突然、「まさかりはないか!」といって動き始めた!
そして、本当にまさかりを持って現れた!
(つづく)