卒業論文発表会

年度末最後の大行事、卒業論文発表会が実施された。
総勢、20名が一人30分の持ち時間で成果を自主運営で発表する。朝から夕方までの大行事である。


ちょこちょこと抜けながらも断続的に聴いた。居眠りもした(つまらなかったのではなく、寝不足事情下記)。
なかなかの力作揃いである。
今回の仕掛けには、教員の側にかつてない負荷が掛かっていた。
それは2月5日に提出された論文を全て読むこと。教員(発表者の多くは、教官と記しているが私たちは、すでに、かつての文部教「官」ではない。大学が独立法人となり、「官」ではなくなったからである)にそれを自ら義務づけた。なにしろ20名分。それぞれが数10ページある。自分の関連する分野であるならば、pdfファイルをざっと流してみることができる。しかし、普段は全く関与しない分野である。それを評価できるかどうかも疑わしい。おまけに他の事柄で超忙殺されている中での新たな試みである。当然、悲鳴も上がった。
私も悲鳴を挙げた。


しかし、自ら決めた義務は義務。
やむなく、前日の休日、それに当てた。結局、12日朝までの徹夜となり、こちらも寝ないまま発表会となった。


体裁、文体、まだまだ荒削りで、論文の体をなしていないものから、かなりのレベルのものまでピンキリである。
しかしである。その「見てくれ」を取り除くと、そこから彼らの情熱が伝わってくるのである。
形が整うと確かに読む易くスラスラといける。だから形も大事にして欲しい。
日本語で書かれるより、英語の方が、少々のミスがあっても、論理が明快となるので一層読みやすい。

一方、ほとんどフィールドノートそのものというものもある。それはそれで卒論の現場が伝わってきて面白い。
また、イントロに大きな野望、結果とのギャップ。それはそれで今のところいいのだ。小さくまとまるより将来の夢へ羽ばたけ。
「知りたいこと」の夢は大きければ大きいほどいい。それが私の持論。

普段の自らの研究分野と大きく異なるものを読まざるを得ないことから学ぶもの。
それは教員自身の再学習、視野狭窄からの脱却である。若者にもらう荒削りのエネルギーである。

全てについて、楽しみ、それぞれについていつでも議論したい気分で終わった。楽しまさせてくれてありがとう。

事後の懇親会風景一部。皆さわやかな笑顔。