奥深き満州にて(2)

1987年、毛沢東が死にほぼ10年、四人組が滅び、中国は鄧小平の時代になっていた。
外国からの研究者も中国を訪れるようになっていた。河野長氏は、古地磁気の研究者。中国大陸各地の岩石磁気を調べて、大陸のテクトニクスの歴史を探ろうという研究であった。
私たちは、かつての満州奥深くまで行くこととなった。河野氏は旧満州鉄道幹部の子息。ハルピン生まれでもあるという。
しょっぱなから騒動が起きた。
今だ人民服をまとい、大きな荷物を持った人で北京の駅は一杯である。そこから寝台列車にのって東北部へ移動である。
どうみても荷物の積み込みが間に合うように見えない。
それでも、私たちはとにかく、列車に乗り込んだ。列車は値段の高い、軟座車。
シーツもきれいで気持ちよく寝付いた。
到着。しかし、やはり荷物は同じ列車では届かなかった。到着したのは一週間後であった。それまで着たきりスズメ。
中国の人にはどってことないらしい。
各地を回り、私たちは、北朝鮮との国境のすぐ北側の町へたどり着いた。
本来そこは、外国人絶対立ち入り禁止区域であるという。
軍事的理由だ、という。しかし、見たところどこにもそんな軍事施設は見えない。
しかし、見るからにあまりにも貧しいのである。
私はそれまで、ここまでのものを見た事がなかった。何度かいった、サハリンも相当に貧しい様相であったが、私たちが子供の時代、すなわち昭和30年代的であった。
しかし、ここは違う。私は、きっと三国志の時代(4〜5世紀)とさほど変わらないのではないか、すら思った。
ほとんど家は泥づくりか、わずかなレンガ作り。そこに今だ、毛沢東思想万歳というペンキ文字が残っていた。
道は完全に泥んこ。その水たまりに生ゴミが捨ててあり、それを大きな黒豚がむさぼっている。
外国人がめずらしいのであろう。村人が見に来る。しかし、黒光りするほどに汚れたボロをまとい、顔は皆真っ黒である。
トイレ。同行した日本人研究者の一人が、トイレに行きたくなり、公衆トイレはどこか?とたずねた。
彼は、そこへいって驚き、吐いてしまったという。

いったいどうなってしまうのであろうか、と皆不安になった。
しかし、私たちはその村の招待所に宿泊することになっているという。
招待所とは、共産党のお偉いさんが来たとき泊まるところ。
そこは古くボロではあるが、きれいにされている。おまけに日本人はきれい付きで風呂がないと我慢できないと指令されていて、新しいバスタブが用意されていた。
毎日、湧かし湯を入れてくれた事には感謝に堪えなかった。

ある朝、キャンキャンという犬の鳴き声が聞こえる。
なんだ?と思い外へ出た。
するとボロボロのトラックの荷台が犬で満載である。そこへ年老いた男性が犬を引きずってトラックへ近づいて行く。犬はなにか嫌がって泣いている。
トラックの運転手がドアから長い棒を持って身を乗り出した。あっという間に犬の首に棒の先の針金の輪を引っ掛け、その犬をトラックの荷台に放り上げた。
「キャーン!」
「犬刈りだ!」
その夕刻、村の一軒だけある食道に、真新しい看板が出た。
「今日有猪肉冷麺」
それを見た私たちはハッとした。
冷麺は朝鮮料理、そしてここは朝鮮族の多くすむところ。とすると、この「猪」とは先ほどの!
(つづく)