勝井義雄先生 

高校の同窓会へ下記原稿をお送りしました。

勝井義雄先生ご逝去の報に接して。
木村 学

 (岩見沢東高校43期卒業、東京大地会会長)
 平成27年10月19日、著名な火山学者であった北海道大学名誉教授勝井義雄先生が亡くなられた。享年90歳であった。
先生は岩見沢東高校の前身である岩見沢中学4年(通常は5年であるが、帝国大学進学のための予科へ進む場合、中途で移行できた)を経た後、予科そして北海道帝国大学へ進まれた。噴火の度重なった有珠山研究をはじめ火山学一筋の人生を歩まれた。

 実は、勝井先生は私の直接の指導教授ではなかったのであるがひとかたならぬ恩を受けた。私は先生と同じ北海道大学の理学部地質学鉱物学教室へ進んだのち、大学院へ進み、当時、新しい地球に関する学説の「プレートテクトニクス理論」が勢いよく流布しはじめていることに遭遇した。大地の動きを簡明に解いたこの理論は日本列島や北海道の生い立ちの旧説を根底から変えるものであった。そのような時には、旧説を打ち立てた研究者は守勢に回り、新しい世代は攻勢に立つ。私は生まれた世代の運で、この新説を全面に取り入れて北海道の新形成史を提案して博士学位審査に挑戦した。しかし、陰に陽に旧説を保守したい諸先生達からの批判にさらされた。そのような中で、勝井先生には全面的に応援していただいたのである。直接の指導教授でないにも関わらずである。何日にも渡って夜に自宅の書斎で、タイプ打ちした英語の原稿の一字一句の添削、内容に関わる議論に至るまで深夜に及ぶ面倒を見ていただいた。なぜご自宅であったのかは大学でやると目立ちすぎると配慮されたのかもしれない。あるいはまた、日本列島や北海道などになぜ火山があるのかとという問いに、プレーテクトニクス理論は直接関係していたので、北海道の大地形成の新しい説を主張し始めた私と多くの議論を望んだのかもしれない。

 とにかく学位論文は完成した。提出締め切り3日前に審査主任教授からプレートテクトニクス専門用語削除要求が来たが、それも「いわゆる」を意味するquotation mark、“ をつけることで乗りきれた。人生のとば口で多くの諸先生、諸先輩、友人の応援を受けたが勝井先生の恩は特に忘れることができない。
 先生が岩見沢東高の大先輩であり、東高の目の前にあった勝井組土建の「勝井」とのつながりを知った時の驚きと喜びは隠すべくもない。私が東高へすすんだのは、北海道の高校進学に1学区一校の小学区制から大学区制がはじめて導入された制度改定という時との遭遇があったからであった。奈井江町から大都会の岩見沢に出てきて、勝井組土建の斜め向かいのお宅に下宿して通った。その際、勝井組の中を通るのが東校への近道だったので多くの生徒が材木置き場の中をすり抜けた。「こら!危ない!ここを通るな!」とよく怒られたあの勝井組の次男が先生なのだと伺った時は本当に驚いた。いつも笑顔を浮かべられた温厚な先生が、それほど身近なところにおられた大先輩だとは、人の縁の不思議さを感ぜざるには得なかったのである。

 平成25年北大で開かれた日本地質学会北海道支部で話をさせていただく機会があった。その折には酸素呼吸器をつけたままで、わざわざ聞きにきていただいて、大変驚くとともに改めて感謝せざるを得なかった。平成27年9月、岩見沢で「大地会」が開かれた折、東京大地会会長としてお招きいただいた。その折に、勝井先生の甥、姪にあたり、やはり同窓の、勝井裕幸氏、津田等氏、津田惠子氏から、先生が高齢でもあり大変難しい体調にあるということを伺い、急遽札幌の入院先にお伺いした。すでに言葉を発するのは難しい状態であったが、昔と同じ満面の笑みでお迎えいただいた。

 そして、平成27年11月27日、いわなび市民講座での講演を前にし、準備を進めている最中に先生の喪報が飛び込んできた。いわなび講座の幹事役を勤められた津田氏によると、勝井先生は私が講演することを聞いて、朦朧とした中でも覚醒し、拍手をして喜んでいただいたということであった。
 岩見沢が産み出した巨人が逝ってしまったことは誠に寂しい。しかし、東高から、岩見沢から、いや日本各地から次の時代を担う多くの人材が次々と輩出されることを願うばかりである。

 合掌