追憶:私とうどんと讃岐(2)  にわとりとうどん

昭和30年代前半、私がこどものころの貴重な食べ物、その一つが卵である。
日本の全てが貧乏な頃、栄養価の高い卵は高価であった。
卵焼きを食べられるのは、遠足か運動会、はたまた風邪を引いて寝込んだときくらい。
それほど貴重であった。

私の父は北海道の田舎の小学校の貧乏教員。
あるとき父はどこからか鶏のヒヨコを手に入れて来た。そして石炭小屋(当時、冬の間の燃料は石炭であった。冬には石炭手当があり、それで皆、石炭を購入。一冬の間に燃やす石炭は膨大である。それぞれの家には、その石炭を置いておくための小屋があった)の横に金網で小さな鶏小屋を作った。
私たちは大喜び。近所の子供も皆やってきてうらやましがった。
ひよこと遊ぶのが毎日の楽しみ。


やがてひよこは大きくなり、毎日卵を産むようになった。
毎日、その鶏の産む卵を採りに行くのが子供の仕事である。


朝、そっと見に行く。
『卵はもう産んだかな?』
『産んだ!』
『よし!』
と鶏小屋にそっと入り込む。
『ク!、クオ!クオ!』
まだ暖かい卵を採る時は鶏との戦いである。
鶏小屋に背をかがめて入り、即座に採らないと鶏に追いかけられ、つつかれる。

家族にとっては大事な栄養をくれる鶏であり、時には子供の大事な遊び相手。
それが当たり前のように生活の中に溶け込んでいった。

しかし、冬の近づいた雪のちらつく寒いある日、一番卵を産む元気な鶏が、なにやら具合が悪そうである。
ぐったりとしておとなしい。
父が家の中につれて来て段ボールの箱の中に入れ、燃え盛る暖かいストーブの近くにそっと置いた。
『寒かったか? 元気になれよ〜』

夕食の時間となった。
その日のメニューは「うどん」。
ストーブの側のちゃぶ台(座って皆で囲んで食事をとる丸いテーブル)を取り囲んだ。

『さ!食べよう!』
お腹をすかした皆が、湯気のたつうどんに箸をつけ食べ始めたその時である!

ストーブのかたわらにおいた鶏が突然、羽ばたこうとして叫んだ。

『ココココオー!』
皆、びっくりしてそちらにふり向いた。

しかし、そのとき、
鶏は、突然ガクンと崩れた。

そして、皆の見ている中で、鶏は口からシャーと液体を吐いて動かなくなった。

「ーーーーー」

私は何が起きたのか一瞬分からなかった。
父が飛び跳ねるように駆け寄った。

『駄目だ!』

はじめて目にする断末魔の叫びと死であった。
まだ幼い私に、とてつもない大きなショックが走った。
ひよこの頃から一緒であった身近な命が目の前で突然逝ってしまう!
人生初めて体験であった。

私はそれ以来、「うどん』というとその場面を極めてリアルに思い出し、食べる事が出来なくなった。
トラウマとなったのである。

あまり食べ物に好き嫌いのない私であったが、
「嫌いな食べ物は?」と聞かれると即座に「うどん!」と答える人生が30年も続いたのである。
学生食堂で最も安くてうまい食べ物、それは「50円のうどん!」と誰しも答える中、
たとえ財布の中に50円しかない時でも、うどんだけは絶対に口にする事はなかったのである。

学生から大学院、そしてポスドクと、本当に長い長いトンネルのような学生生活を終えた。
ようやく職(食?)を得て、天にも昇るような気持ちで、まだ寒い北海道から暖かい瀬戸内海、春爛漫の讃岐高松へ私は赴任した。

その初日。

「木村君、これらから、よろしく!」
満面の笑みで、赴任先の上司となることとなった、大きな体の坂東祐司先生に昼食に誘っていただいた。

「さ、うどんを食べにいこう!」
『!!!』
私はこの讃岐高松が「うどん』の日本一の名産地であることなど全く頭中になかった。
突然、頭を殴られるような大きなショックが走った。

(つづく)