避暑地で考えたこと
(定年まであと247日)
7月末の週末、東京では恒例の隅田川花火大会。私の住む浦安市でも東京湾で納涼(?)花火大会。百万人を越える人達が押し寄せたらしい。汗をダラダラと流しながら、深夜まで熱中症の恐怖におののく。全く納涼どころではなかったであろう。
今年の夏は、自宅ベランダから見える花火大会を避け、今春小学入学の孫共々、軽井沢、草津温泉の家族避暑ツアーが子らによって企画された。真夏の軽井沢、人生初体験。
こちらは夜半になると本当に涼しい。朝は長袖がいるほどだ。
緑に囲まれ、浅間の山を眺めながらの眺望に心身ともに生き返る。
それでも日曜日昼下がりの旧軽井沢の街はもはや避暑リゾート地のイメージではない。お土産に群がる一大観光地である。でも一歩外れると満載の自然の中に身を置くことができる。爽やかな風と清らかな空気がうまい。
「自然と科学」「科学と社会」「科学と人間」などメタ科学について深く考えながらのぞまねばならないことが昨今多い。散歩しながら思いに浸った。
科学とは、自然現象を理解するために、原因と結果解明という筋を通せという思考である。しかも、それらは論理なり、実験なり、観測をもって、誰でも再現できることをもって「真実」を認定する厳格なルールを持つ。
しかし、その厳格さによって理解された「真実」など自然全体と比べようもなくわずか。有限を無限で割れば、数学では零の定義でもあるのだから、人間は何もわかってないといっても間違いではない。
その「無、小ささ」を思うとき、人は科学を「超えた」メタなものに畏敬の念を持つ。一方科学が解き明かした不動の真実の前進は次々と怪しいメタを滅ぼすという誇りも生まれる。
どうやって自然全ての理解への道を拓くか、プラトン・アリストテレス以来繰り返されてきたメタ科学としての「科学方法論」だ。
19世紀後半から20世紀前半までは、科学万能論が席巻した。そして、科学は善なる誇りから悪の道具へともなることを未曾有の悲劇から知らしめられた。
大都会東京は科学万能論の息苦しさの象徴?。ビルの谷間に熱風が吹き荒れ、かの国を非難できない連日の光化学スモッグ警報発令。その熱波の中の「納涼」花火大会。
一方、爽やかな風に抱かれ、科学の割合などほんのわずかしかない大自然での熟睡。
プラトンvsアリストテレスに立ち返り、どちらの道筋が、自然の真実を知る道筋として近いか。よい思考をする機会ともなった。
先の大戦中にフランスで生まれ世界を癒した「恋人たち」シリーズのベイネ。その小さな美術館。
「平和へのおもいをのせて展」芸術も心を癒す。
良かった!思わず額縁付きの一枚買ってしまった廊下の壁に飾ろう。
ーーー旧軽井沢街で、暑さに負けて飲んでしまった地ビール6種類!うますぎる!全部くれ〜!
軽井沢は大衆化したなどと高見からえらそうにしている場合ではない! うまいものはうまいのだ。