言の葉① 問答法=ディベート術

昨日は土曜日なのに、朝から夕刻まで会議。時に激論。
今日午後も学術会議主催、「地球惑星科学参照基準」公開シンポジウム。またいろいろと議論になるだろう。

さていつも議論になるたびに思い、かつ自分が発言するときにあえて意識的に思うようにしていることがある。それは人類が知恵として蓄積してきた問答法=ディベート術に関してである。このことをちょっと意識するだけで、感情は抑えられ、議論を収束、あるいは「打ち勝つ」ことができるのにと思う。

って、なんか仰々しいけれど。

 会議では、その内容によるが言葉使いが行方を左右する。ある提案に対して、納得の出来ないことがあったとしよう。会議に時間があれば、議論になる。納得できないことを「反対!」とまず叫んでから意見を述べる場合と、縷々説明をしてから最後に「反対!」という論理展開をする場合がある。英語的論理構成からするとまず結論ありきの前者の方が良いように思うかもしれない。また、日本では反対と言うことには一見勇気がいるように思うかもしれない。が、単なる反対ほど言い易いことはない。

しかし、それではギリシャ時代のソクラテスレベルなのだ。
彼は、「どうして?なぜ?わからん!」と否定的な疑問を素直に発信し続け、反対、わからんと言い続けたので反権力と見なされ死刑になったしまった。最後の弁明で、自分は「無知な自分を知っているだけだ」という意味の「無知の知」と言った。それを受けて、「ごめんなさい」といえば許してやるというと提案があった。それに対してもう歳だから死んだ方がいい、といって毒をあおったという。


すなわち、否定、反対だけでは、説得性を持たず、死ぬしかない(!?)。

そこで、問答に打ち勝つための方法としてプラトンによって提案されたのが弁証法だ。現代の言葉でいえばディベート術だ。弁証法って問答において弁を証明する方法っていう意味。昔、誰によって訳されたのか分からないが、うまい訳語だと思う。明治時代の哲学元祖、西周かな〜?。議論をし、論争になった時に、その議論に打ち勝つ方法なのだ。論破する、できるということ。

会議の議論で有効だというだけではない。科学論文では必ず最後にdiscussionを書かねばならず、その論理展開は査読者や時に否定する相手とのやり取りに勝つ方法ということだ。
それを聞いただけで、弁証法ってどんな方法と知りたくなるのではないだろうか?
(つづく)